世(よ)を經(をさ)め、民(たみ)を濟(すく)ふ

代表の佐藤です。

小説・漫画・アニメ・映画などを通して主に経済的視点から政治に対してのことを批判している記事の多い、当「意識高い系低血圧」ブログ。

なんかどうも正しいことを書いてる(と思ってる)らしい。
が、どうにも難解。
てゆーか、前提条件がそもそもよくわからない。
↑のこともあってなんかバカにされてる気がする(何様だ貴様エラソーに)。
↑よってムカつくので読まない。ぴえん。

という指摘があり反省していますェン。

小説など創作作品の内容に関しては、ネタバレなど無いようにわざとよくわからないようにしてますので、是非作品を鑑賞いただきたいと思います。

とにかく暗喩はなるべく廃して、例えはなるべく直喩を用いて書いていきたいと思います。
やはり例があった方がわかり易いとは思いますので。(暗喩もわかりさえすればすっごく肚落ちするんですけどね)

さて、どこから話しましょうか・・・

今回は、「経済」という言葉の意味から少しお話を。

金融資産の売買を経済というのはナンセンス

経済というと多く思い浮かべると思われるのは、株とか為替とか金融資産の売買などかと思います。
そしてそれを「投資」と呼んで、「投資で儲ける」という謎(←後述)の結論に達してしまっていることでしょう。

しかし、それは経済という世界の一つのジャンル、といいますか機能といいますか・・・
サッカーで例えるとオフサイドというルールがあり、投資で儲けるのはオフサイドトラップを仕掛けている感じと言いましょうか。(こういうのが余計わかりずらいって言われるんだよな・・・)

端的に言うと、金融資産の売買は経済活動の仕組みをつかったある種のゲームだ、ということです。
経済全体、本質を知らないばかりにそのゲームに右往左往させられているのが現状だということなのです。

再び例えるならば、サッカーのルールわかっていない選手と審判と観客。
みんなルールがわからないから、どちらの陣地のゴールにボールが入っても誰が蹴ったボールかでその選手が属するチームの方に加点されちゃって、それでも華麗なドリブルとかパスとかシュートとか個別のプレイで観客が沸いてしまうんです。

経済の本質がわかっている人からすると、現状はこういったデタラメな世界なのです。

ですので、経済の本質がわかっても株で儲けることはできませんので悪しからず(笑)。
金融資産の売買はゲームで、その本質は確率の世界です。
これらを上手に操る能力というのはやっぱりあるのですが、ほとんど「運」と、その運を外しても揺るがないだけの資金的バックボーンが全てのパワーゲームです。

 

「経済」という言葉の本当の意味

話は戻って、「経済」です。

経済の語源は、経世済民(經世濟民)です。

世(よ)を經(をさ)め、民(たみ)を濟(すく)ふ

晋の古典にその概要が書かれ、隋、唐の時代に政治・統治・行政一般を現す言葉として經濟が定義されました。
そして18世紀の江戸中期まで、正しい意味での経済は継承されてきました。

しかし、江戸後期となり貨幣のやり取りによる活動が浸透するにつけ、生産・消費・売買などの活動について論ずる面が強調されるようになり、幕末に英国から所謂金銭にまつわる活動を表すeconomicsを輸入した際に経済を充ててしまったというのが、この現在まで続く混迷の原因となっています。

本来の意味で扱うのであれば、political economyに対して経済を充てるべきでしたが、こちらは「理財」としたり「政治経済(筋肉痛が痛いみたいな)」とするようになりました。

言葉の乱れ、劣化が及ぼす影響がどれだけあるのか、ということがよく表れています。

経済というものが政治・統治・行政の在り方を示すものであるという事を、ひとつ頭に入れておく必要があります。
為政者の矜持として、また民がそれを認識することで為政者と民の信頼関係を築くことが必要だということです。

つまり経済とは、民間における金銭をやり取りする活動のみならず、政(まつりごと)を執り行う側も積極的に、少なくとも民間が活動するのと同程度に、しかもまったく違う角度から介入する必要があることなのだ、ということです。

基本的には経世済民ですから民が富を享受することが大前提です。

しかし暖炉で暖をとって暖かいのを超えて、その火元から火事となってしまって火傷・焼死・延焼となってしまうのは災害です。
そうならないための制御をかけるのが執政者の務めということです。

制御をかける側ですので、基本的に民間とは逆の考えと行動が必要です。

民間は儲かりたい。為政側は儲かってはならない。
民間が儲かり過ぎている場合、為政側はその儲けを削る、または薄めなければならない。

そして何より為政側はそもそも儲かる必要がない。
サッカーの例にならえば審判がボールを蹴ってゴールを決める必要がない、意味がない。(この例えは微妙・・・経世済民の視点を例えるなら審判ではなくサッカー協会とかになるんだけど、まぁ端的にわかり易い方で)
そういう「務め」だということです。

民間の活力という火が燃えさかり過ぎそうなら酸素を減らし、火が消えそうならば酸素を増やしたり火種を入れたり薪をくべたり。
燃えすぎるなら、そもそも暖炉のサイズを大きくしてより多くの火が燃えても火事にならないようにする(経済規模の拡大)というのもありです。

それが政治、経世済民=経済なのです。

「投資で儲ける」は病的・猟奇的な発想

このように、市場に丸投げすると暖がとれなくなったりはたまた大火事になったりと変動激しいものを均す安定化装置として政(まつりごと)があります。

暖がとれなくなることはそもそも富が無い状態ですからわかりやすいのですが、大火事でも対岸の火事で無責任なギャラリーにとっては「いや~こっちまで暖かいよ~」とか「火!すごいすごい!」とか喜んでしまうサイコパスな富の偏在という現象もあります。

経世済民では、富をそもそも創出したり、富の偏在を広く分配するために、「投資」というものが行われます。

投資の字のごとく、自らの「資」財を「投げうつ」ことで新たな価値をつくりだしたり、すでにある価値の流通経路の整備することでより多くの人にその価値を享受できるように交通整理するものです。

よって、投資とは基本的に儲かるためにするものでは無いのです。

投資することでより多くの人に富が行き渡り、投資したことの報酬としてその残滓を戴くこと(インカムゲイン)はまだ健全かとは思いますが、株や債券など、保有している資産を売却することによって(逆の空売りも同様)得られるキャピタルゲイン(売買差益)を狙ったものはくっきりと言葉を変えるべきだと考えています。

キャピタルゲイン目当てのものは「投機」というのがぴったり当てはまるかと思います。
上がり下がりする「機」会に対して賭け金を「投」げ込むのです。
「ベット」
「レイズ」
「コール」
まさにゲーム。

このゲームの中に経世済民という考えは一片もありません。
投機は経済ではない、経済の仕組みをハッキングしてクラッキングしたゲームだということです。

株などの金額の上下で一喜一憂するのは、先の例に出した「デタラメなサッカー」だというのが少し見えてきましたでしょうか。

さて、かなり長くなりましたので「本質」の話はまた後日。

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