みなさま、こんにちは。北川です。
7月25日あさ、DJの松浦俊夫さんより訃報アナウンスが。
矢部さんが心筋梗塞で没した 享年59。
急な別れに息を飲みました。言葉を失う
ジャズメンの旧友中村くんに報せると、松浦さんとこの数年20年ぶり和解したらしく残念でしかたないとの弁。
ほんとうに残念で仕方ありません、まだまだ先の予定がどっさり決まっていたのに。
松浦さんと違い、DJとしてコマーシャルな仕事からどんどん離れ、近年は神宮前bonobo 吉祥寺Cheekyでよくプレイしてました。存在感と出音の迫力でだれにも負けない、野球が大好きなグッドルッキングガイでした。
むかしの写真をみると永瀬正敏さんに似てるのですが、長身でスーツがよく似合った。むかしの少し前のめりの顔つき、口調はラウドマイノリティそのもの、この数年は野球帽をかぶってカジュアルスタイルでときに半ズボンで現場にあらわれるも、選曲はキリリと引き締まる。ほんとうに恰好いい人でした。
UFO※のころから知るひとによれば、なかなか人を寄せ付けない、打ち解けづらいと評されてましたが この10年くらい後輩たちから愛されるやさしい人柄があちこちで喧伝されていたことを、溢れかえる弔辞が物語っています。直言居士も年齢なりに丸くなったきがします。顔はいかつい表情なのに、口をつぐ言葉は茶目っ気おおあり。
※1990年代に活躍した矢部直・松浦俊夫・ラファエルセバーグ 日仏3人のDJチーム。アシッドジャズの本流として本邦初メジャーレーベルから数々のシングル、アルバムをリリース。マンディ満ちる(秋吉敏子さんの愛娘)と制作したヒットシングルがある。
かつて一世風靡したUFOは、そもそもスターをめざしてはなかったとわたしは思います。DJ達とはほんとうに職人気質なベテランがおおく、ひとりで出来る仕事ゆえかなとおもいます。アシッドジャズという一過性ブームが過熱しようが、ロンドンのジャイルズ・ピーターソンがいまだに現役でいるように、実力あるひとは自分個人のスタイルが多くのファンを生みキャリアを生き永らえていくのです。
ただし、当時渦中の3人は青山blueと西麻布イエローで黄色い声と羨望のまなざしをおくるギャラリーに囲まれ、淡々とプレイするジャズメンそのものでした。 矢部さんはもともとクラブキングで桑原茂一さんのアシスタントをしており「音楽選曲家協会」スタート時に、会員#11の職業DJとしてクラブカルチャーの隆盛をささえたひとりでもありました。
当時クラブDJはようやくディスコのハコDJから一歩前進して、ネームバリューだけでお客さんを200人呼べる藤原ヒロシや牧野雅巳さん、須永辰夫さんらが週替わりハコ替わりのパーティで活躍しだしたころです。
そうはいいましてもやはり水商売の一部からはなかなか脱せず金銭的にも立ちいかず、芝浦GOLDの閉店でもってコアな遊び人たちの饗宴は終息していったようなきがします。そののちはヒップホップの多層化、ゴアトランス、クワイエットストーム等々クラブイベントは細分化のみちをたどります。アシッドジャズも熱狂を産んだブームで、ジャズディフェクターズやインコグニートなどスターをうみだします。
ブームのあとも生き残るものが本物といえましょう。矢部さんがプレイ中スーツを着てワインボトルを3人で代わる代わるまわし飲みしていた姿は忘れ難くも、20年後もビートニクとしてジャズを掛け続け厚く支持を受けていた、愛する音楽を静かに奏で続けしあわせな人生をおくったのはまちがいないとおもいます。
ジャズと落語はよく好事家にどちらも好まれます。
深く永く掘る。おなじ根多を繰り返しかけても感動をうむ。派手さはなくても何度聞いてもおなじところでしびれる。
矢部さんは演奏家ではありませんが、粋で恰好いいスタイルが見る人に憧憬を覚えさせるすばらしいDJでした。人柄も温かかった。あの笑顔がもうみれないのはとても淋しい。
ありがとうございました。さようなら矢部さん。
毎々拙文のご精読をありがとうございます。
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