みなさま、こんにちは。北川です。
他者からみておのれの自己紹介をわかりやすくしようと、SNSプロフィールに所属変遷等の固有名詞を端的に記す。なまえ/〇〇@ときどき仮想通貨 など折々のエポックを個人識別のアカウント名にしてしまう。これらを目にすると訊かれもしないのに自分語りをはじめてしまう人たちのようにわたしにはみえます。職業柄、わたしは他人様(お客様)のおはなしを傾聴することがおおく、わたしがどこぞの何者か、どんな人間なのか、なにができるのかは、おはなしをまずお聞きしないことには話す必要はありません。もちろん途中で聞かれましたら丁寧にお答えします。(商売における)インタラクティブとはつまりそうゆうことです。
これがデジタルツール内のコミュニケーションでは、ビジネス個人アカウントでも双方時間短縮のため「情報」として固有名詞、性格判断の診断などをセルフブランディングというなのもとに、まったく無名アノニマスな人物がていねいに記載している有様をめにします。これをみるに、承認欲求なのかはたまた自分の存在をまず説明したく理解をかならず求めてくる。いささか子どもっぽいなあと感じる事象としてきになります。つまり「他人とは、あなたにそこまで関心ないですよ」とわたしはいいたいわけですね。まあおおくは赤の他人なので違和感といってもたいしたことはありません。
それと違和感の正体として、そもそも30字くらいのプロフィールでその人の属性がわかっても、いったい個人の人間性や特徴、得意・苦手なこと、まして性格などわかるはずないだろう、と自身の経験上おもっています。そもそも記載情報は誰の目からみても事実といえるのかは訝しい。なかなか自分自身さえよくわからないのに、他人さまの人格を正確に理解認識することは簡単なことではありません。
不明なことはやまほどありながら人間関係は徐々に強化される(もしくは距離をおく)、ノンバーバルコミュニケーションをむしろ好むせいでしょうか。表情や声のトーンでいろいろその人がいま気にしていること、不快なこと、好むことはだいたいわかるというものです。そのような慇懃無礼だけですまないやりとりで信頼は増していくことがおおいとおもいませんか。顔なじみである、云いたいことを目をみて言えるというのはとても快適なものです。そこまでもっていけるような配慮にわたしは労を惜しみません。またよそよそしくない人間関係を許されるひと、距離は縮まらないひと、分別判断いうのはおよそ2回くらい会えばわかるというもの。
先日、鬼のように恐ろしい女上司が「実家のスイカ畑のはなし」になると途端に相好を崩す。という知人のおどろきの近況をきいたばかりで恐縮ですが、たまに自身のほんとうにプライベートなことを明かさない人というのもいるわけです。なので、他人をただしく理解することは至難と前述しました。
これは女性におおいと感じる兆候で、よく医師たちが過去の病気怪我等の履歴詳細を女性にたずねても正確に述べないひとがおり、現在の問題点のヒントへ遡及できないとおっしゃいます。初対面でのコミュニケーションでたがいに信頼を寄せていいのかわからない場面での齟齬ですね。このように、自己と他者の関係性とはむつかしい場面もあり、自己開示・自己紹介の作法は臨機応変であろうということでもあります。
じつは、よく知らぬ他人との雑談で「ん???」と感じたことが先週ありまして。
ある日わたしは家族と港区某店で食事をしました。オーナー山本宇一さんのお店です。従業員への教育が厳しいとかつて聞いたことありますが、総じてフレンドリーな接客で有名です。かえりしな、ショーケースのケーキをながめていると「そのアルバム、わたし大好きです」とSADEのTシャツを着ていたわたしへ店員女子が話しかけてきました。わたしではなくSADEへの関心ですwあくまで。以下そのやりとり仔細
わたし「ぼくも大好きで人にあげたりして3回買いましたよ あ、ことしアルバム6枚のアナログリイシューでますよね」
A子さん「いいですよねー うちの店頭※にも置いてあればいいのに」  ※店頭でオーナー厳選の中古レコードが若干販売されています
わたし   「山本さんにおねがいしたほうがいいですよ」
A子さん「え ごぞんじなんですか?」
わたし   「宇一さんは有名人ですよ」
A子さん「えー そうなんですか」
ここでわたしは家族と退散。
なにか嚙み合わないなとわたしがおもったのは、若い彼女は自分の関心事だけがいいたい。つまりあたらしい情報や他者への質問の答えはいっさい求めていないのです。独り言のようなもので、他人への共感興味はほぼありません。これは多くの10~20代男女に顕著で、仲の良い数名の友人以外はみな「他人」なので眼中にないのです。互いに深く立ち入った会話をまったくしようとおもわず、自分のことも「まるで他人事」のようにはなすのがとても気になります。メタ認知のようでビジネス上の会話でなく、まったくの雑談なのですが感情の起伏がわかりづらい。それと目の前の他者の脳内が想像におよばない、自分中心の会話であることが上記からわかるとおもいます。おそらく。SADEのすばらしさを彼女は他人と会話したいと1ミリもおもっていない。
*SADEとはロンドン出身でスムーズジャズの世界的な有名バンド
そんな断絶をたまにいろんな場面でかんじます。なかなか容易に仲間や友だちをつくるのが苦手というのも理解できてきました。自分にだけ関心が向きすぎる 不幸であり、デジタルデバイスでのコミュニケーション偏向の産物だなあ、、ともおもいます。冒頭「わかりやすさ」とはまた別のイシューなのですが、よーく考えるとじつはセルフブランディングとは、他人へ関心などまったくもてないのを無理やり自己開示し他者との接点を増やそうとする努力の結晶なのか!とすらおもえてきました。なぜこうもみな自分のはなしばかりしたがるのか、女性の自己愛ならたいてい世界中あるあるですが もっと自分が楽に生きられる、快適でいられるには他人様との協力関係、親密な連携があればよりたやすいともおもうのです。大富豪以外は。
こうした他者を理解し協力しあうと生きやすくなる。という練習が「各種スポーツのチームビルディング」において10代でも実践できるな、とこの数年インスタグラムをみていて気付きました。
大昔のオグルヴィ・メイザーによる360度ボンディングのような概念ですが、スポーツで苦楽をともにし仲間と勝利を掴む経験をしたアスリートたちは「自分ひとり」でできることの限界を知ります。あわせて謙虚に周囲へ感謝の念をもちます。他人さまがいて生かされている、師や仲間や親に感謝するわけで。じつは20年前そんな奥ゆかしい人たちより、生意気で仕方ないトップアスリートもおおかったのです。一転ゆとり教育の賜物なのか感謝をつねに口にする、自分が恵まれている恩に笑顔をみせる選手たちとはスポーツによる情操教育のすぐれた点かなとおもいます。理屈だけではない、精神力を鍛錬すると周囲への目配りと共感力がうまれる。
「練習」は不可能を可能にする
某大は試合でそんな横断幕を会場にもってきたりします。練習でできないことは試合でできる訳ないだろ、わたしもそう教えられました。
本日の結論です。わかりやすさはビジネスで優位性をもつであろうが、人間の成長過程では他者の容認のほうが「自身のわかりやすい自己紹介」よりも大事ではなかろうか。
以上拙稿のご精読をありがとうございます。
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